2010年10月7日木曜日

二文論文の部分

ⅷ)dumb type

ダムタイプ(dumb type)は1984年に京都で結成されたアーティスト集団である。身体のパフォーマンス、映像と光、音楽、そして舞台装置、観客の視線のほかに、インスタレーション、出版などまさに「マルチ・メディア」作品の発表を続けている。
 そして、(制作主体の複数制[コラボレーション]=交通)と <制作媒体の複数制[マルチメディア]=交通)>をコンセプトに現在まで活動している。池田もメンバーの一人として音響、音楽担当で参加している作品がいくつかある。そのダムタイプにおける池田の活動は、音楽作品のリリースだけにとどまらない。その音に対する多角的な眼差しを裏付ける創作活動だといえる。
 まず、ダムタイプのために池田が作曲したものは、(たとえ、一人で制作したようなものがあっても)あくまで共同制作によるものと言える。それは単純にダムタイプで使われている曲のクレジットを見ればわかる。中心メンバーで、エイズによる敗血症で亡くなった古橋悌二と、池田が参加するまで、音楽の技術的部分のほとんどを担っていた山中透も、ダムタイプにおける音楽を作曲している。むしろ、誰が作曲したなどというものは、あまり意味がないかもしれない。なぜなら、このダムタイプこそ、個人というものに収束されがちな芸術というものを、あえてダムタイプ「言葉をもたない;ばかなやつら」と自らの愚かさを誇示することで、<過剰なディスクール、溢れんばかりの言葉、映像、情報に対して、無知であることを主張する>芸術が伝えるものを一から問い直すような言説をもっているからだ。少なくとも、個々の作家性というものを重要視している趣はない。たとえ創設時からの中心メンバーである古橋悌治がエイズに感染し、そのような個人の物語を作品の中に要素としていれようとも、ダムタイプは何の前提も無い舞台装置の上では結局、<一つの身体についての外面的なイメージ>しか観客に伝えない。
 ダムタイプでの池田の作品はあくまで<制作主体の複数制=交通)>という前提が伴っているため、ダムタイプの作品そのものについてもいくらか詳述しなければならないだろうが、ここでは池田が参加した作品の音響面にスポットを当てつつ、池田の作品との共通点を挙げることで、音というメディアについてのヒントにしてみよう。
  <『OR』では『+ / -』の曲をもとにして使ってますからね。曲っていうかああいう構造自体を。あのストラクチャー自体をフレームにしてパフォーマンスを作っていたんですよ。>
 この池田の発言から、わかるようにダムタイプは(確かにそれぞれの得意分野はあるだろうが)完全な分業制に基づく創作ではなく、まさにコラボレーションによって作られていることが裏付けられるわけだが、<構造自体>をどのようにして、パフォーマンスにしていったのだろうか。様々にあるダムタイプの作品から『OR』を例に取り、考えてみたい。
  <OR - binary system.
OR - alternative A or B.
OR - 0(zero) radius - invisible circle - point / dot.
OR - operation room. It is about the state of "white out", like in the blizzard,
where you are deprived of ability to see,
where you can't recognize anything,
where you don't know where you stand any more,
where you may not know whether you are alive OR dead. But what distinguishes one from the other?
Where is border?
What is death?
What is it?>
 『OR』のもとにあるコンセプトは以上のようになっている。
「生と死」という“生々しい”要素が挿入されているのは、エイズで亡くなった、ダムタイプのメンバー古橋悌二の死が関係していると思われる。しかし、改めて<What is it?>と言ってみることで、これまでのダムタイプの作品でもたびたびモチーフとして登場した「システム」や「コード」の問い直しが、この作品においても行われているということが、上記のコンセプトからも理解できる。古橋は、「ダムタイプとはどのような意味ですか?」という問いに対して、次のように答えている。
  <これは、情報を詰め込まれているのに、何も認識していない社会のことです。>
 ダムタイプは『OR』において、真っ白な半円のステージを用意した。<ブリザードの中にいるような、white out>の中に、身体を持っていき、ストロボなどの光、「ホワイト」ノイズ、音楽、そして身体と身体、様々なメディアが一つの情報となって、ステージ上の身体、そして客席上の身体へ襲いかかってくる。私たちは、情報を詰め込まれて、何も認識していないのではなく、情報を詰め込まれてるが故に、何も「認識できない」のである、と言わんばかりの真っ白な光が、ステージ上を支配する。そのメタファーとして、「white out」(雪の乱反射で何もみえない状態)は機能している。
 パフォーマンス自体は六つのシークエンスに分かれている。<[OR]ientation>と名づけられたそれぞれのセクションの冒頭に、ステージ上に出てくるテクスト<Imagine yourself in a car heading South…>には、「あなたの思い通りに」なる世界、一瞬で好きなところへ、好きなものを、好きなだけ…つまり情報社会にあっては、シミュレーションで、すべて欲望を満たしてしまえるけれど、それで満足なのか、と問いている。 <When your life flashes before your eyes, which direction does it go? The burning rope. The flickering frame. The empty cascade between this moment and the next. >  
  ここで示されているのは、「真っ白な空間」、つまり様々な「デジタル情報」によって無菌化され、制御されている世界であり、そのシステムが壊れた瞬間に、人間は何もすることができなくなってしまう。感情がなく、ただ息をしているだけ。様々なシステムのもと、受動的に反復していた身体は、最後のシークエンスになると動かず、ただ呆然と佇むことしかできない。
 <テクノロジーは、身体の限界をそれを引き延ばすことによって解放するのだということ、しかしながら、そうすることによって身体の隷属化をも招きえないということ>
 情報社会における、メディアの肥大化に気付かなければ私たちは、情報によって動かされ、終いには、身体自身がヴァーチャルと化す、そのような自己矛盾を引き起こす。人間の自然な動きや知覚が、情報そのものに依存してしまえば、人間の思考までも、ヴァーチャルなものになってしまう。そんなSFじみた現象が現に起こり得るかもしれないと、ダムタイプは示している。
 このようなダムタイプのコンセプトは、池田の音楽作品についてもあてはまるのではないか。音楽の情報も、システムや巧みなデジタル・技術で、人間の知覚を越えた、細かい部分までも操作できるのだから。

注:引用元は以下
「「ダムタイプ」論」熊倉敬聡、「InterCommunication No.11」所収、NTT出版、1995、p93
「ダムタイプS/N : シグナルとしての身体/ノイズの礼賛」恵子・クルディ、阿部崇・戸田知子訳、「表象のディスクール③ 身体・皮膚の修辞学」所収、東京大学出版会、2000、p253
同上、p259
HYPERLINK "http://dumbtype.com/" http://dumbtype.com/ 2008年12月12日、『OR』のテクストも同じ
「メモランダム 古橋悌ニ ダムタイプ」Dumb Type、リトルモア社、2000、p122
「ダムタイプS/N : シグナルとしての身体/ノイズの礼賛」恵子・クルディ、前掲、p255

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